友好の橋 2009.12

アーカイブス友好の橋


2006 年から日本と各国との友好秘話を取り上げ、
先人たちが築いてきた「相互信頼」の足跡を紹介してきました。
「感動して何度も読み返した」「涙が止まらなかった」
そんな読者の声の中から・・・心に残る、語り継ぎたい物語をご紹介していきます。
今回は、2009年12月号の『友好の橋』です。

ウズベキスタン共和国
Republic of Uzbekistan


ナボイ劇場が大地震でも崩壊しなかったのは、日本人が建てたからだという

戦後、タシケントに抑留された日本人457人に課せられたのは大劇場の建設
捕虜でありながら勤勉で礼儀正しく働く日本人の姿は、次第に市民の尊敬を集めた

シルクロードの日本人伝説

 15世紀中頃の大航海時代まで、オアシスの国ウズベキスタンは長安とローマをつなぐシルクロードの要衝でした。19世紀以降はソ連に支配され、1991年のソ連崩壊とともに独立します。現在も構成民族は100を超え、まさに多様な文化と民族が混在する国です。
 首都タシケントの中心街に、モスクワのボリジョイ劇場、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場と並ぶ旧ソ連三大オペラハウスの一つ、ナボイ劇場があります。
 2001年8月、独立10周年の記念イベントの一環として、このナボイ劇場で日本の代表的オペラである「夕鶴」が上演されました。日本から来た約百人の観客の中に、涙を流している人たちがいました。第二次世界大戦後、捕虜としてタシケントに抑留され、ナボイ劇場の建設に携わった永田幸夫隊長と現存者たち、「シルクロードの日本人伝説」として語り継がれている人たちです。
 終戦時に旧満州からシベリアに抑留された日本人は60万人で、そのうち3万から4万人が中央アジアに、457人がタシケントに連行されたのです。課せられた労働は、2年後の革命30周年記念日までに劇場を完成させることでした。
 この劇場が「日本人伝説」を生んだ背景には二つの要因があります。一つは、捕虜でありながら、勤勉に、礼儀正しく働いたことです。そうした日本人の姿は、次第に市民の尊敬を集めました。
 もう一つは、1966年にタシケント大地震が起きた際、市内のほぼ全ての建物が崩壊した中、ナボイ劇場だけは悠然と立ち続けていたことです。「日本人が作ったものはすごい」という評判は、やがて伝説のように語り継がれ、91年に同国が独立した際、日本を国づくりのモデルにしようとなったのです。

側壁に記された日本人の貢献

 収容所での生活は、「生きて帰れるかどうかわからない」状況でのつらい労働。永田隊長は当時25歳という若さながら「隊員を絶望させず、肉体的にも衰弱させないよう」気を配りました。食料は平等に分け、将棋、麻雀、花札、碁、マンドリン、バイオリン、大太鼓などの娯楽を作り、上演した芝居は市民にも評判になるほどでした。
 ナボイ劇場の側壁には、「日本人」が建設に貢献したことが記されています。「捕虜」という言葉を使っていないところに、ウズベキスタンの人々の気持ちが感じられます。

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