友好の橋 2021.04

中華人民共和国
People’s Republic of China

奈良時代、幾度も遭難しながら来日した鑑真
「鑑真和上と戒律のあゆみ」展

 3月27日から5月16日まで京都市東山区の京都国立博物館で「鑑真和上と戒律のあゆみ」展が開かれています。戒は倫理・道徳、律は法律に当たり、鑑真が戒律を伝えたことで日本仏教は世界水準になりました。

 唐の揚州・大明寺の住職だった鑑真は742年、日本人僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)から渡日を懇請されます。奈良時代の日本は、聖徳太子が目指した律令と仏教による国づくりが、聖武天皇によりほぼ実現しようとしていました。

 聖武天皇は全国に国分寺を建て、総本山の東大寺に大仏を造立(ぞうりゅう)します。一方、当時は自分で出家した僧が多く、規律があいまいだったため、僧侶の制度を定められる高僧を唐から招くことにし、若い学僧を派遣したのです。

 鑑真は弟子たちに渡日を呼びかけましたが、航海の危険から希望するものはいませんでした。そこで自ら決意し、それを聞いた弟子21人も随行することになります。

 そして、日本への渡海を試みますが、遭難などで5回も失敗し、その間に鑑真は失明、6回目に目的を果たしました。井上靖の小説『天平の甍(いらか)』はそれを描いたものです。

 なぜ鑑真は、そこまでして日本に行こうとしたのでしょうか。当時の唐の皇帝は仏教を保護していましたが、次第に古来の道教を重んじるようになり、845年には大規模な仏教弾圧が起こります。鑑真はそんな未来を予感し、仏教の未来を日本に託そうとしていたのでしょう。

 ※詳細は2021年4月号本誌にて。

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